そして伝説へ
水泳部の県大会が近いので、一人学校のプールに残り練習していると、にわかに人の気配を感じた。はっと顔を上げる。夢中になっているうちに、辺りはすっかり暗くなっていた。まずい、警備の人だ。前に同じようなことがあってすごく怒られたことがある。
説教を覚悟で、おそるおそる振り向くと、プールサイドには毛並みのよい白馬がいた。
白馬だ。確かに白馬だ。プールの水をごくごく飲んでいる。どう見ても警備の人じゃない。不審者でもない。そもそも人じゃない。不審馬だ。
どうすればいいんだ。そうだ、鞄の中に携帯がある。白馬に気付かれないよう、そっと体を動かして携帯を取りに行こうとした瞬間、白馬の傍らで人影が動くのが見えた。警備の制服を着たいつかのおじさんをちょっと期待したが(それでも充分怖いけど)、現れたのはマントを羽織った王子様だった。微笑みながら白馬の背中を撫でている。警備の人じゃない。野球の才能のない衣笠祥雄みたいな顔をした、あのおじさんじゃない。外国人だ。
これはたぶん、まずいことに巻き込まれている。
そう思ったのも束の間、私の肩に何かがとまった。小鳥だった。青い小鳥。つぶらな瞳をくりくりを動かしながら、ウェーブのかかった金髪を、くちばしでもてあそんでいる。ちょっと待て、誰の髪だこれ。手をやると、それは私の頭から生えていた。つい数時間前まで、学年の女子の中で唯一のスポーツ刈りだった私の頭からだ。
勘弁してくれ。県大会が近いんだよ。
問題はそんなことではない。しかし私の頭をぐるぐる回るのは県大会が近いという言葉だけだった。だが私の絶望をよそに、どこからか風が吹いてきて、森の匂いとともに私の鼻をくすぐった。見上げると、プール全体が木のアーチに覆われていた。飛び込み台は切り株になり、手すりには蔦が絡まっている。視界の下の方で、水面に私の顔が映っているのがわかる。でも、怖くて見られない。
涙が出そうになった。その時、私の鼻先で魚が跳ねた。小さな水音が、夜のプールだか森だかに響きわたった。
王子様がこちらを見た。
私と目が合った。
驚くな。
頬を染めるな。
絶望のあまり目を閉じてうつむく。
しかし、足音とひづめの音はユニゾンでどんどん近づいてくる。
県大会あるんで!こういうの無理なんで!マジで!
しかし、そう叫んだはずの私の口からとび出したのは、知らない国の言葉だった。